等乃伎神社等乃伎神社等乃伎神社
等乃伎神社由緒

御祭神

主神天児屋根命(天照大神の侍神)
相殿神大歳大神(須佐之男命の御子)
壺大神(太陽神)
菅原道真公(天神さん)
誉田別尊(応神天皇)
摂社宇賀之御魂神(お稲荷さん)
末社天御中主神(高天原の天宰神)

御利益

音楽上達・芸能上達・厄除開運・五穀豊穣・身体健全・夫婦和合・意欲向上
商売繁盛・酒造発達・学業成就・心願成就・技芸向上・大願成就・延命長寿
安産子宝・招福除難・火災厄除・諸病退散・交通安全・縁談成就

御由緒

「延喜式内社」

『続日本紀』天平勝宝四年(752年)の条に「中臣殿来連竹田売」と記載されています。ここにみえる中臣氏の一族である殿来連が祖先神である天児屋根命を当神社に奉祀し、また、その年に太政大臣・藤原武智麻呂、その子の大納言・恵美押勝(藤原仲麻呂)が相次いでこの里に来られ居住されたと伝えられています。このように、当神社は常に藤原氏一族(中臣氏)と由縁がありました。

【巨木伝説】

『古事記』下巻の仁徳天皇の段に、「兔寸河の西に一本の高い樹木があった。その樹木に朝日があたれば影は淡路島におよび、夕日があたればその影は高安山を超えた。ある日、この樹木を伐って枯野と呼ばれる船を作り、朝な夕なに淡路島の清水を汲んで、その聖水を天皇に献上した。この船が壊れてから、その廃材を焼いて塩を作り、その時、燃えない材木があったので琴を作ったところ、素晴らしい音色を発し、遠くの村里にまで響きわたった。」

この説話の冒頭にある「兔寸河」は、当神社の東南を流れる「富木川」で、また、南北朝の戦乱時代に焼討に遭う以前は、当境内には多数の楠の巨木がそびえていたらしく、多くの焼株の発掘で確認されています。この事から、古来、富木村に船を作る為の楠の巨木が豊富に茂っていたことが想像できます。

また、遠い昔、海岸線は当神社に接近していたと考えられ、それは、当氏地の大園遺跡の発掘物の中に多数の漁貝類が存在した事からもわかります。


以上の事から、古代において、当神社には楠の巨木が茂り、海岸線が接近して、前掲の仁徳天皇記の記載が示すように、淡路島の清水を汲んで高津の宮に帰ってくる時には、そのそびえる楠の巨木が船路の遠くから目印になったのでしょう。現在も当神社にその名残の楠があり、御神木として崇められています。



【太陽信仰】

遠い昔、古代国家の黎明期、揚子江南部地域から朝鮮を経て伝わったといわれる稲作農業にとって、一番大切なのは太陽と水の恵みでした。太陽信仰はその稲作農民が太陽を崇める事により始まり、太陽は神として信仰されるようになりました。

「とのぎ」という言葉は古代の太陽信仰と密接な繋りがあり、古代朝鮮の新羅語では「日の出・朝日」を意味するといいます。巨木伝説の説話で巨木の影がさしたといわれる高安山の頂上に立てば、当神社の方角に冬至の太陽が沈みます。当神社の側からみると、高安山の頂上に夏至の「日の出」を拝む事になります。この冬至の日は、1年のうちで最も日中の時間が短く、太陽の活力が弱まっています。そしてこの日を境にして、太陽の活力は夏至の日に向って盛り返すのです。

等乃伎神社では、この冬至の日に太陽の恵みの復活を祈って重要な祭が行われ、夏至の日に太陽の恵みに感謝して祭が行われたと伝えられています。このように、当神社は太陽祭祀の重要な場所であったのです。


御鎮座

当神社は現在、高石市の取石二丁目(富木)に鎭座される取石・西取石・綾園加茂地区の氏神様で、古くは和泉国大鳥郡の富木村・市場村(綾井)・南出村(綾井)・大園村・土生村・新家村のそれぞれの氏神様として祀られてきまたしたが、明治41年1月、稲荷神社(市場村)・明治42年1月、壺神社(大園村)・菅原神社(土生村)・大歳神社(新家村)・明治42年2月、延喜式内社の大歳神社(南出村)の五社が当神社に合祀され旧泉北郡取石村一村の氏神様となりました。

その後の町村合併で、昭和28年高石町と合併し、更に昭和41年には高石市となり、当神社は、奇しくも高石市の東北に鎭座される鬼門の守護神ともなりました。

古来、地元の人々に親しまれた「とのぎ」「はぶ」「しんけ」「あやい」「おおぞの」という地名が地図の上から失われた事は愛惜の念一入です。


歌枕

・枯野を塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや
由良の門の 門中の海石に 振れ立つ 浸漬の木の さやさや (古事記下巻 仁徳天皇記)
・妹が手を 取石の池の 波の間ゆ 鳥が音異に鳴く 秋過ぬらし (万葉集巻第十)

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